天地人ゆかりの武将アイテムコレクション

愛と義の上杉No.2(1560年~1619年)
2009年NHK大河ドラマの主人公。戦乱の戦国の世で越後の名門上杉家2代に仕え、特に上杉景勝の時代には名軍師として働き、太閤秀吉からは「直江兼続は天下の仕置きを任せられる男なり」と言われ、“豊臣”の性を授けられ、主人(景勝)とは別に米沢30万石の所領を与えられるなど高く評価された。さらには秀吉の家臣に、と誘われる程であった。 兼続は上杉謙信に習った“義”の精神を受け継ぎ、主である上杉景勝に忠実に尽くし、国を愛し民を愛した戦国きっての働き者でもあった。やがて時代は徳川家康側に傾き、秀吉の側近石田三成と兄弟の契りを交わしている兼続は、反徳川派として戦うことを決意する。このときの家康とのやり取りで送りつけ、喧嘩を売ったと言われる有名な書状が“直江状”と呼ばれている。 最後には、徳川家康との戦に負け、降参し上杉家は会津120万石から出羽米沢30万石へ減移封されてしまう。4分の1に減らされた領土で民を守るため、新たな土地の開墾を進めるために治水事業に力を入れるなど、当時では画期的とも言われる改革を続け、国や民を豊かに立ち直らせていったのである。 戦国時代には珍しい“愛”の前立ての兜は、戦の神・愛宕権現、あるいは愛染明王を表していると言われる。
無駄口を叩かない寡黙な武将(1556年~1623年)
元は上杉謙信の姉、仙桃院の子として生まれたが、生涯子供を作らなかった上杉謙信の養子として迎え入れられる。謙信が存命の時には忠実に従い働いた。謙信を戦国武将として尊敬していた景勝は、それゆえに自分は謙信に及ばないとの想いが強く、常に謙信のようにありたいと考えて行動していたため、感情を表に出さず寡黙であったと言われている。 その後、豊臣秀吉政権時代にはその働きを認められ、会津120万石を与えられるまでに出世をし、豊臣政権の“後大老”に数えられるほどであった。徳川政権に時代が変わると、真っ向対立の姿勢を見せ、東北各地で徳川派の東軍と“北の関ヶ原”と呼ばれる戦いを続け勝利を目前とする。しかし、本家関ヶ原で圧倒的な勝利を治めた家康には太刀打ちできず、上杉家を存続させるため降伏することに。 その後は出羽米沢30万石へ減移封された領土で、直江兼続と共に上杉家を守っていった。
兼続、唯一無二の親友(1560年~1600年)
近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)で生まれ。羽柴秀吉が織田信長に仕えていた頃に秀吉の小姓として仕える。信長の死後、次の天下人として秀吉が頭角を出し始めた頃、三成も側近として、戦でも一番槍の巧妙を上げるだけでなく、外交交渉面でも活躍し秀吉を支えてゆく。 勢力を伸ばし続けた秀吉軍に対して、上杉景勝と直江兼続は同盟を決意する。同盟は越水城で執り行われ、秀吉、三成、景勝、兼続の会見があった。ここで三成と兼続、同年齢の二人は意気投合をし友誼を結ぶ。“越水の誓い”である。その後の出世で豊臣政権“五奉行”の一人に数えられ近江佐和山19万石を与えられる。秀吉の死後はその嫡男、豊臣秀頼を側で支え、次の天下を狙う徳川家康と対立関係になっていった。一触即発の状況でいよいよ関ヶ原の合戦が勃発。西軍として徳川軍に挑んだ三成を筆頭とする豊臣派であったが、東軍の圧倒的な力に惨敗。家康の命により斬首され、その生涯を終えた。
“義”を掲げた越後の龍(1530年~1578年)
時の将軍、足利義輝から“関東管領”を任命され、周辺地域の武将達と度重なる戦を繰り広げてゆく。越後の国主として常に“義”を掲げ、数々の戦で活躍を見せた。織田信長、北条氏康などとも戦っているが、特に有名な戦としては5回にも及んだ、ライバル武田信玄との“川中島の合戦”である。 現代でも会話の中で使われる“敵に塩を送る”という言葉。これはライバル武田信玄の国である甲斐国には海がなく、生活には欠かせない塩の入手が困難になったときに、謙信が甲斐国の民のために塩を送ってあげたという話である。ここにも謙信の“義”の精神が生きていたのである。 越後では春日山城を居城とし、自らが武神である毘沙門天の転生であると説いていたため、妻子を持たず、跡継ぎは養子をとっていた。 勢力を拡大し天下を狙う織田信長を倒すべく、関東侵攻後、信長を打倒し京へ上洛すべく動こうとした謙信だったが、遠征の準備中に突然倒れ、そのまま息を引き取った。
天下を脅かした第六天魔王(1534年~1582年)
いち早く西洋の文化を取り入れ、戦でも鉄砲を使用するなど、時代の最先端で天下を治めようとしていた戦国のカリスマ織田信長。自らを“第六天魔王”と呼び、神にも仏にも逆らう当時では考えられない行動で、当時では小国だった尾張国、そして織田家を一躍全国のトップまで押し上げていった。絶対に数滴不利といわれていた今川義元との桶狭間の戦いでも、陣を取る今川軍の反対側から深夜に攻めた奇襲作戦で、兵の数10倍とも言われる今川軍を打ち破ったのである。 敵味方を問わず周囲の人々をアッと驚かせるその知恵と行動力に部下達が対応できなかったのか、その中のひとり明智光秀によって謀反を起こされ本能寺にて自害。天下取りまであと一歩という志半ばの人生であった。
下克上でのし上がった天下人(1537年~1598年)
尾張の百姓として生まれた木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は、農民から天下人と大出世を果たした言わずと知れた戦国武将である。織田信長の小者として仕え、普請奉行、台所奉行などさまざまな仕事をこなし、“猿”と呼ばれながらも織田家の家臣として頭角を出していった。 信長が明智光秀の謀反により倒れると、織田家の先頭で戦い、光秀を討ち、織田家家臣の中で対立関係になった柴田勝家や敵対していた北条氏も倒し、いよいよ天下統一を成し遂げたのである。帝からは関白・太政大臣の地位を与えられ、その後刀狩りや太閤検地など反乱を起こさせないためのさまざまな政策を行った。豊臣政権下では五大老として上杉景勝や徳川家康などを起用した。 織田信長とはまた違った知恵を駆使し大出世を果たした秀吉であったが、伏見城で62歳の 生涯に幕を下ろした。
東北の暴れん坊(1567年~1636年)
幼少の頃に煩った天然痘の影響で右目を失明。その戦のスタイルや性格も手伝ってか“独眼竜”と呼ばれた。後に徳川幕府が開かれ、仙台62万石という大藩の礎を一代で築いた出羽、奥州の武将である。 豊臣政権時代に秀吉は政宗に対し“私戦禁止令”を出す。しかし政宗はそれを無視し、奥州統一の野望に向け戦を繰り返す。そして秀吉の度重なる小田原・北条攻めの参陣の命が下されたものの、当時北条氏との同盟関係にあった政宗は秀吉と戦うべきか小田原に参陣すべきか迷い、なかなか姿を現さなかった。秀吉に臣従の意も込めての参陣であったが、あまりにも待たされた秀吉の怒りはピークに。そこで“策士”としても名高い政宗は“死の覚悟を決めた”意志を表す白装束姿で登場、先手を打たれた秀吉は逆に感心したとさえ言われている。“伊達男”や“○○は伊達じゃない”などの言葉は、この伊達政宗から由来されている。
徳川家康も恐れた知将(1567年~1615年)
真田家としては祖父の幸隆が元々武田信玄の家臣であったが、父の昌幸が家督を継ぐと弱小国の信濃を守るため織田、北条、徳川、上杉と主君をめまぐるしく変えていった。そして上杉家の家臣となるときに、幸村が人質とされ景勝や兼続と交流を深めたといわれている。その後、幸村の働きとして有名なのが“徳川家康をあと一歩まで追い詰めた”ということである。1614年の“大坂冬の陣”では父譲りの知恵を活かした戦略で家康側の東軍に大勝、なかなか落ちないと判断した家康は和睦の為、信濃1国を条件に降伏をすすめる程であったが、幸村はこれを断っている。さらに翌年の “大坂夏 の陣”では東軍である伊達政宗の騎馬鉄砲隊1万5千を蹴散らし、見事な退却戦を演じる。勢いを増した幸村軍は奮闘を続け、家康の旗本勢を蹴散らし、大将旗を倒すまでに追い込み、家康は三方ヶ原以来の屈辱を味わい切腹を覚悟したといわ れている。和型流「天地人」
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